何を捨てたのか、捨てたかったのか、捨てられたのか。『八月の路上に捨てる』
こんにちはー
最近寒すぎて、逆に夏の本が読みたくなっている、まねです。
今回は伊藤たかみさんの芥川賞受賞作『八月の路上に捨てる』です。寒いので。。
尖った表紙ですね〜。本屋で平置きされてたら、ジャケ買いしちゃいそう。
あらすじ
八月最後の日。
三十歳の誕生日に離婚する予定の敦。
敦は将来のことをを漠然と思い描きながら、
自動販売機の補充作業をするトラックドライバーの仕事をしている。
同僚の水城さんに、付き合ってから結婚生活、そして離婚に至るまでの顛末を
話して聞かせながら、トラックで猛暑の都内を周回していく。
物語は、敦と水城さんがトラックに乗り仕事を進めていくシーンと、
敦の結婚生活の回想シーンが繰り返される構成となっている。
「自販機」という、見慣れてはいるが、詳しくは知らないモノ。
やはりこの小説の特筆すべき点は「自動販売機の補充作業員」。
この象徴的な仕事である。
自動販売機天国と言われるほど、この国ではあらゆる場所で清涼飲料水を売っている。車が通り過ぎていくだけの峠道にも、秘境の温泉にも、葬儀場にも、スペースのある限り自販機は進出してゆく。(本文13P)
自販機の缶のサイズや専門用語、缶のつまりの対処法、品切れ対策の巡回ルート
など自動販売機にまつわる様々な情報が丹念に描写されている。
この描写によって感じることのできる優れた点は、緻密な描写による専門的知識
や情報そのものではなく(もちろんそれ自体に感じることができたなら素敵なこ
とだが)、当たり前のように目にしてきた対象の奥行きではないだろうか。
僕らの生活の中で、当然のように溶け込んでいる、物や事。しかしそれらを
僕らはどれだけ知っている、あるいは知ろうとしているだろうか。
例えば、いま足元に転がっている、たこ足配線の中身はどうなっているのか、
わかる人は意外と少ないのではなかろうか。
そんな生活の裂け目に着目する行為は、非常に創造的で、ひいては文学的だと
僕は思う。
自動販売機という当たり前に溶け込む物をフィーチャーして、裏側にある
知らない景色を描写したことで、読者に「そのモノに触れた主」のことを
想像させることに成功している。
宿命的な人生の痛み
一方で離婚に至るまでの主人公の夫婦の歪みは、何か仕方ないものを感じる。
お互いなりに想いあった夫婦生活というのは、どちらが正しい、もしくは悪いと
いうものではない。時間をかけてズレてきた隙間は、凝り固まって、「どうすれ
ばいい」とかいうロジカルな解釈だけでは、修復できなくなってしまうものなの
だ。
仕事だけして生きてはいけない。同じように、家庭だけに専念できない。
決して言葉の論理的な意味ではない。「仕事辞めれば?」という意味ではない。
全てまとめて人生。全てがうまくいくなんて人はいない。宿命なのだ。
自販機の仕事のシーンと、離婚に至るまでの回想シーンに
暗喩的な共通点を探してしまう。これがこの小説の特徴的な読後感ではないか。
そこには僕たち読者の各々の、様々な解釈が生まれると思う。
それがこの「ステル」という命題に、どう関わってくるのか。
オススメの小説です。読書のキッカケになれば幸いです(´∀`)
またねー✨